昭和四十八年七月八日 朝の御理解
x御理解第八節
「子供の中に屑の子があればそれがかわいいのが親心じゃ。無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ」
金光様の信心はどういう信心か、どういう神様を拝んでおるのか、と質問を受けることがあります。例えば、この御理解第八節、こういうような神様だと説明するなら、誰でもわかられるような感じが致しますね。子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親心じゃと。まあ屑の子はいらんというのではなくて、その屑の子の方が可愛いのだと。それが親心じゃと。「無信心者程神は可愛いと思し召すような性質と性格を持った神様を私共は頂いておるのだ」というように説明したら合点がゆくのじゃないでしょうかね。
大変難しいことを教え、大変難しいことを教えるということは、段々難しいことがわからなければいけないのですけれども。例えば罰を与えるとかね、いう神様ではないと。信心には、そういう面があります。罪とか、罰とかいったような、例えば罪深い者であればある程、神様は可愛いと思って下さるような神様。
昨日から、青年会の方達が泊まりがけの信心の研修をやっておられます。まあ言うなら、信心が幼い。まあ言うならば、信心が幼稚だと。例えば兄弟の中に、まあ幾人も兄弟があると致しまして、大きい子供よりやはり小さい子供に親が不憫を感ずる。また可愛い者だと。そういう無信心とか、薄いとか、まだ未熟なという人達がお願いを致しますとおかげが早いですね。と言うて信心が育たなかったらいけませんけれども。
信心はやはりどこまでもお育てを頂く、いわゆる信心は育って行かなければいけない。段々信心の話を聞かせてもろうて、ものの道理がわかり、天地の御恩徳がわかり、自らおかげが受けられる受けものが段々出来てくる。そこには、あの人は一人で生活をやって行けるからと、親も安心する。放任するのでなくて、親が喜ぶ、安心する、そういうような信心に育って行かなきゃいけない。
神様に安心してもらえれる程しに育って行かなければならない。
初めからそういう訳にはいかん。親は屑の子があれば、その屑の子が可愛いように、まだ育っていない小さい、こまい子供の方に不憫の心が動くのですから。だからと言うて、それがいつまでも、只可愛い可愛いというようにね、例えば三つか四つの子供がいつまで経ってもそのような程度の成長を見らないとするなら、いよいよ親は不憫に思う。不憫に思うたところで、どうにも仕方がない。親でも仕方がない。
そこに、「信心しておかげを受けてくれよ」ということ、神様が不憫をかけて下さる。小さい者が可愛い、無信心者が可愛いからと言うて、いつまでもそれでは神様を悲しませるだけである。不憫の情を募らせるだけである。それではどうにも出来ない。だから育たなければいけない。
昨日、遠隔地に「おかげの泉」を送っておりましたら、そのお方から手紙が届きました。大変に待ち遠しい。次から次と一冊の本をまわしに読んでおかげを頂いておる。ところが、先生の話の中に、時々わからないことがある。まあそれは意味が難解であることもありましょうし、また、私がいわゆる筑後言葉の丸出しで話しますから、意味が通じないということもある。通じないところは飛び抜かして読むといったようなこともあるわけです。そこのところの説明をね、しといて頂きたいと言ったようなことが書いてあるんですけれども。
その方に、私は手紙を書かして頂いて、とにかく私がお話をすることは、やはり私がおかげを受けておる実感である。だからもう実感がそのままお話の中に出て来るのですから、意味はわからなくっても、こうやって膝突き合わせて皆さんが話を聞いて下さる。それはそのままわからんなりにおかげを頂くんだけれども、それが活字になって読むということになると、結局わからんなりに済ますと。
だから私は言ってやりました。少なくともね、十遍は読んで下さい。もう皆一遍に読まなくとも区切りがしてありますから、まあ何節かづつでも良いですから、月に、ですから少なくとも十遍は読んで下さい。もうどんなに難しいことでも必ずわかります。
成程、私の話は教祖様の御教えの饗宴であります。言うなら、教祖様のお話の中に、いろいろの味を付けて大きな宴を張る時に、饗宴と申しますね。お御馳走を沢山つくって、もうですから、何処から食べてよいやら、お御馳走がいっぱいあるようなもんです。だから一遍に頂きこなすという方が、簡単にわかった方ではない。それは言葉は、表現は容易う解いてあるけれども、その内容というものは難しい。ですから、少なくとも十遍は読まなければいけません。
「おかげの泉」はどこまでもおかげの泉でありますと、看板に偽りがあってはならんと思っております。新聞雑誌のような雑読するようなことではなりません。少なくとも十遍位は読み返して下さいと書いとります。雑読ではいけん、新聞やら週刊誌どん読むような、只わかり易い、わたっただけではいけん。それが血肉にならなければならん。ですから、それを少なくとも十遍位は読んで下さいと言うのです。段々お話を頂いて、信心が成長して来る。只、通り一遍頂いただけだからわからん。それを味合うて血肉にするところにおかげが頂かれる。いわゆる信心の成長であり、育つのである。
昨日は、代会でもございました。昨日は一人一人、さあ皆さん誰方か一人お話して下さいというのでなくて、皆さん打ち込んで居られます時は、もうお話は次から次と出て来るんですよね。昨日秋山さんがいろいろ体験をお話ししとられましたが、中でも腹を立てないということの修行。もう腹を立てないと思うと、そういう修行をしよう、そういう勉強をしようと。もうすぐに神様は勉強の材料を出して下さると言ったような、生々とした体験を話しておられました。
永瀬さんのお話を頂いとりますと、先日から柿畑の消毒をお取次ぎさして頂いておかげ頂きました。あれは消毒液、何々という消毒液は沢山造って、そのまましとったら効果がなくなる。そこで、少しづつ造って行かねばいけない。けども今日は、お取次頂いてのことだからと言うて、初めからドラム缶三本もつくらせて頂いた。ところが、おしめりがパラパラありましたとこう言う。
おしめりがあっては、又効果が無い訳であります。そこで神様に一心にお縋りをする、お願いをする、さして頂いた。そうしましたら、おかげでおしめりにも合わずにおかげを頂きましたが、終わって山を降りて来られたら、下の方の…。あの柿畑にお出になった方はおわかりでしょうけれども。
チョコッと降りますと、角に郵便局があります。その郵便局の角まで来ましたら、その辺はもうジックリ降っとった。おしめりがほんな急に角、自分方の、言うなら、柿畑のところだけはよけてお通りになったという感じだ。「天地が自由になる」と仰せられるが、本当に天地が自由になる程しのおかげを受けられるもんだという。
これはいつものことながら思いますけど、そういう体験を頂いたという話をなさった。
久保山さんがお話をしとられるのも、本当に、こと神様と自分の心を向けて来ると、それこそ置いた物を取るような、万事万端の上に、ご都合送り合わせ、そういう働きの中に、おかげを頂けるという。言うなら、お道の信心をさせて頂いて、お道の信心というが、いや合楽の信心を頂いとる人達の体験というのは、確かにそういう体験である。身近に神様を感じ、身近に神様の働きをそこに感ずる程しのです、おかげを受けておられる。
だから、私は皆さんの話を一遍通り聞かして頂いてから、有難い話だなとこう思わして頂いとりましたら、「松」という字を頂いた。
木扁に公という字が書いてあります。だから皆さんが間違いなく神様の働きを、これは神様の働きを表して行けれる話です。ですから、私のこと、自分一家のこと、只自分の信心のそこの周辺のことだけに、そいう間違いのない働きを表して行く働きだけでなく、総代として、これを教会全体に、又は自分の職場に、社会に、町に、村に、そういう間違いのない働きを表して行ける程しの、おかげの頂ける信心を願わなければならない。成長のお育てを、信心が育って行くことの願いをさしてもらわなければならない。
私は今、皆さんの話を聞いて「松」という字を頂いたが、「松」という字は、木は心という字。公という字が書いてあるから、言うなら、公のことを願っても、言うなら、「大きな願いをさして頂いても、そのような間違いない働きを頂けれる信心にお育てを頂かねばいけんですね」と言うて、最後にお話ししたことでした。自分の周辺の上にだけは、私一家の上だけには、私の所にだけは、それを現すことの出来る信心を頂いとるのですから、信心の成長が出来れば、どんな大きな範囲の上にでも、段々そういう間違いのない働きを表して行けることがわかるでしょう。そこに信心の成長を願わなければいけません。
今日、私は「屑の子」とあります。それを成程、屑の子程可愛いと言う、それが親の心であります。けれども、それが、屑の子が屑の子であったんでは、只、親の思いが、只、不憫が募るというだけでは、どうにも仕方のないことである。ですから私は、今日は「屑の子」ということは、親が可愛いと思うのは、やはり、大きい子より小さい子の方が可愛いという風に聞いて頂いた。
まだ、言うならよちよち、まだ一人では歩ききらん、まだ一人で生活もしきらないというような子供の方が、親としては可愛い、同じ情なんです。私共が拝ましてもろうとる神様という神様は、そういう神様なんです。と言うて、ならそういう例えば、神様が可愛いがって下さるから、もう余り太らんがよか、いつまでも一寸法師のごとしとったっちゃ、どんこん出来ん。やっぱり体格も隆々と、力も出来て、そして何もかにも親に頼まんでも生活が出来て行く、一本立ちが出来るという程しのおかげを頂いてはじめて、もうあの子は安心というおかげが受けられる。親が喜んでくれる。その親の喜びが、安心が、私共の上に、又、安心となり、又、喜びとなって頂けるような信心を願わなければいけない。
昨日、総代さん方にも申しましたように、「そのように間違いのない神様を表すことの出来れる信心を頂いておられるのでありますから、それをもっと広く大きく表して行けれる信心にお育て頂かねばいけない」とお話し致しましたことです。
それには例えば、お話を頂いたと、成程教祖様の御教えの、私は饗宴だと思うです。どこからでも頂いて行けれる。それを頂こうという気になりゃ、信心はどこまでも成長出来れる内容のものを、ここで日々皆さん頂いとるわけです。余りおご馳走が出過ぎてから、もう見ただけでいっぱいになっとるという向きはないだろうか。成程頂いたことを、それこそ、少なくとも十遍位は読んで頂かなければ。
いかに「おかげの泉」、例えば、ここで小さい冊子が出ております。「おかげの泉」。それはね、それを本当に頂かせて頂くという気になればです、それだけでもおかげが受けられる。それは、この毎日お参りになるという方達よりも、遠隔地に送らせて頂く人たちが、「おかげの泉」を待ち望んで読んでおられる程しの人が、必ずおかげを受けておるです。だから、沢山頂くということだけではない、頂くというか聞くだけじゃいけん。頂いたことが、それがやはり咀嚼されるというか、そういうお御馳走を、振る舞って頂いておるのでございますから。
成程看板に偽りはない、その「おかげの泉」という本は、只の本じゃない、有難く頂けば、この本に書いてある内容そのことでおかげを頂く。心に悩みがある時に、あの「おかげの泉」を押し頂いて、こう開かせて頂くと、その一節のところだけでもです、自分の心の中に光がさして来る。自分の心の中に、ああ、ここだったとわからせて頂くような体験を、皆が受けておる。成程偽りはない、看板に偽りはない。「おかげの泉」だ、尽きぬおかげを頂けれる内容を持っておる。
そういうお話を、お互いが日々頂いとるのですから、信心が成長する、育って行くことの上に於いてもです、成長して行かなければ嘘である。いついつまでも神様の間違いなさが、只自分の身辺だけに止まってはならない。それが大きく広く、そうしたおかげを表して行けれる信心を身につけて行きたい。又、そういう願いを持ちたいと思います。
どうぞ。